律氷(りっひょう)と木の本質は
同様であるとされる。
だが、表層的には差異がある。
表層的な差異は
可逆と不可逆の性質に見てとれる。
木は
種から芽、
芽から大樹、
大樹から枯れ木という
不可逆な変遷を辿る。
一方、律氷は
特定の条件下で現れる
一時的な形でありながら
溶ければ液状に還るという性質を持つ。
これは可逆性の様相を呈する。
では、
律氷は本当に可逆なのであろうか。
確かに、
律氷を構成していた分子は溶け別れても
そのまま液体の中にあり、
物質としての連続性は保たれる。
だが
液状である限り、
分子は絶えず離合集散を繰り返し、
その配置を変えながら流動している。
それはつまり、
一度律氷を凝固させ、
再び溶かし、
改めて凝固させた場合、
例え同じ形に見えても
一度目の律氷と
二度目の律氷は
完全に同じ律氷では無い事を意味する。
その意味においては
律氷の性質もまた不可逆と言える。
木が枯れ、
その生命力を受け継いだ種が
新たな芽を出すとき、
生まれ出た芽は
枯れた大樹そのものではない。
それは
かつての大樹とは異なる
唯一無二の個体であり、
同一の存在が
再び現れたわけではない。
仮に種が一つも芽吹かず、
枯れ木から新たな芽へという流れが
途絶えたとしても、
かつて枯れ木だった存在は
やがては地に溶ける。
あるいは燃えて天と混ざる。
一度溶けて混ざったものは、
二度と同じ形には戻らない。
どれも一度きりの、
繰り返すことのない
不可逆な流れとなる。
木であろうと
律氷であろうと
どちらも
ある視点を固定した時にだけ立ち現れる、
存在の一断面にすぎない。
木が大樹になろうが枯れ木となろうが、
加工され机になろうが灰になろうが、
律氷が凝固しようが液状に還ろうが、
それはある状態を通過した存在の、
また別の相への移行でしかない。
可逆性とは、
まなざしを粗くした時にのみ
立ち現れる幻であり、
まなざしを深くしてゆけば、
そこにあるのはただ、
一回きりの
不可逆な流転のみである。
極小の世で
極小の存在がある動きをし、
寸分違わぬように
逆向きに完璧に反転した動きをする。
それは一見、
完全なる可逆に見える。
だがその動き、反転の動きとともに
時は確実に失われている。
そして
見る者の意識は確実に連続し
前へと進み続ける。
律氷の凝固と液化もまた、
その流れを端的に示しているにすぎない。
故に
律氷と木の本質は同様であるとされ、
存在が、
ある視点を固定した時にのみ立ち現れる
一断面にすぎぬことは、
万物に通ず。