次の瞬間、
アシュナスは棺の前にいた。
ズタボロの禮装。
空の禮筒。
僅かにしか霊水の残っていない
自在器たるフディア。
そして全身の痛みに、
変わりはなかった。
だが、一つだけ違った。
ヨルグナの
すっかり消えたキアンディナが
伸びをした。
「あー…よく寝た!」
キアンディナはアシュナスを
見つめ
「傷だらけ…悪かったね。」
「けど…」
「ありがとう…アシュナス」
と言った。
アシュナスに這い登った
ヨルグナもすっかり
消えていた。
キアンディナは少し上を見上げ、
「アイツ…強かったろ」と言った。
二人の後ろに堅き鱗が
悠々と確実に迫っていた。
「キアンディナだけでも…逃げろ。
俺はそのためにお前を迎えに行ったんだ。」
キアンディナは
アシュナスを見つめ、
「まさか。アシュナスが諦めの言葉を
口にするのかい?
目的から目を逸らすのかい?
あんたらしくもない。」と言った。
「お前を…逃すことが…今の目的だ。」
とアシュナスはキアンディナに告げた。
「屋敷の前に…
石舟が転がしてある。
律氷が導いてくれるはずだ。」
アシュナスは
ウィルカルの村を思い浮かべた。
「あたしのはすっからかんだけど
アシュナスの霊水は?」
「一滴ほど。」
「充分!ティアマナシアは
あるか。無いか。だからね。」
キアンディナは堅き鱗を見た。
そしてアシュナスを見つめた。
「それに…あの時とは違う。
今のあたしにはあんたがいる。」
「アシュナス。
その霊水をあたしに分けて。」
キアンディナは
燭台(しょくだい)を思わせる
フディアを握りしめ
その言葉をアシュナスに伝えた。
アシュナスは
「…分かった。」と言い、
僅かに残った霊水を
更に半分に分け
キアンディナのフディアに入れた。
アシュナスは理解した。
キアンディナに
逃げる意志など無いことを。
キアンディナは
あの灯火のような現れを
灯すつもりなのだろうか。
キアンディナのために
命を使い切る前に
最後にあの小さな光を
見るのも
悪く無いとアシュナスは思った。
「女神ティアマナシアよ。
今にありたる我が霊水の
全てを捧げます。」
とキアンディナは言葉を置いた。
『ソラフィオリア』
キアンディナは続けてその言葉を現した。
それはアシュナスが
はじめて聞いた詩であった。
次の瞬間、
堅き鱗のヨルグナが
二人を飲み込んだ。
だが、
化け物の攻撃が
二人に届くことは
無かった。
気付けば二人は
灯明(とうみょう)のごとき
炎の風に包まれていた。
それはキアンディナのフディアによる
現れであり、詩であり、
灯火の加護であった。
キアンディナの灯明の如き
自在器からは美しい灯火の風が
吹き出でた。
灰が毒葉蟲(どくはむし)を
払うかの如く
堅き鱗の攻撃を
その優しき灯火の風が
遠ざけた。
堅き鱗は蔓(つる)の如き
鱗肢(りんし)を幾度も振るった。
堅き鱗の鱗肢は
アシュナスの骨を砕き
キアンディナの皮膚を破り
二人を肉片にする。
だがそれは
鱗肢が二人に
到達していればの話だ。
実際には化け物から放たれた
鱗肢はヨルグナ同様
炎の風に阻まれた。
その美しく優しい灯火は
焚き火の温かな光のように、
広陵とした大地を撫でる
優しい風のように
アシュナスを包んだ。
灯明に包まれるうちに、
再びフディアを振る
復活の意志が
アシュナスの内に生じはじめた。
「キアンディナ…これは…」
「あたしだって
ただ寝てたわけじゃないさ!」
とキアンディナは
アシュナスに言った。
キアンディナの瞳に僅かな
悲しみが見てとれた。
それはゼイゴウの身体が
欠損し地に付した時、
そしてその後にアシュナスの
大きな負傷が起因となって見せた
あの瞳に通じる悲しみであった。
アシュナスは悟った。
自らが来る日も来る日も
化け物の種を割り
棺の如き大岩船の中で
意識の禮画を描く鍛錬をしていたように、
キアンディナも
淵の向こうで習得していたのだ。
自らの願いを込めた禮極(れいきょく)を。
だが、灯明の火が永くはもたぬように、
キアンディナが半滴で現した
加護たる灯火の風も瞬く間に尽きた。
その優しい光が消えた時、
そこには堅き鱗を鋭く見据え、
フディアを構える
アシュナスの姿があった。
アシュナスは
自在器たるフディアに残る
半滴ほどの霊水を
鋭い刀として現した。
本来ならば
それは脆弱な刀に過ぎないはずであった。
極少の霊水の強度は
アシュナスをもってしても
確信には至らないからだ。
だが、キアンディナの復活は
アシュナスの心に
迷いなど微塵も生じさせず
頑強な意志で
統御する必要の無いほどの
揺るぎなさをもたらしていた。
そこに清き流れが生じ始めた。
その無形の流れこそ
アシュナスが
幾度となく意の内で鍛錬を重ねた、
五つ目の禮画であった。
それを現すには
微塵の揺らぎも無い
極限の心的状態を必要とする。
その時、アシュナスの小庭の
折れ砕かれた灰色の木の枝に残った
最後の一葉が
風にさらわれた。
その葉が舞い
落ち葉となった時、
アシュナスに
師の言葉が聞こえた。
「流れの中に何を見る。」
それはあの白き鉱山たる水山に流れる川で
かつてアシュナスが
師から問われた言葉であった。
師は自在器たるフディアを構えた。
もしも領域に達していなければ
弟子を切って捨てるためである。
それが自らの禮極を得るための
儀礼に臨む弟子と師にまつわる
エニファル村の慣わしであった。
その夜アシュナスは
フディアが完成した時のような
月の光がさす川と共にあった。
「雄々しく荒ぶる霊の如きが見えます。」
アシュナスは師に告げた。
その夜、川の流れは激しかった。
アシュナスはその流れの中に
人智を超えた存在を見た。
「それは龍と呼ばれる流れだ」
と師は弟子に言った。
「これが最後の問いだ。」
「流れの中に何を見る。」
師はもう一度弟子に問うた。
アシュナスの一度目の回答は
決して誤りではなかった。
だからこそ弟子には
次の問いに答える機会が
師から与えられたのだ。
それはアシュナスが
まだ捉えきれていない
本質への問いであった。
ゼイゴウは
躊躇なく弟子を切り捨てるために
フディアを更に精妙に
力強く現し構えた。
最後。
アシュナスにとってそれは
まさしく最後の瞬間であった。
アシュナスは月を見た。
アシュナスの世界から音が消えた。
月はアシュナスの心に
静寂をもたらした。
荒れ狂う川に映る微細な輝きを
鮮明に捉えることが出来るほどに。
アシュナスは師に答えた。
「月と星々が見えます。」
「虚実の星月が。」
荒れ狂う川のしぶきの中に
確かな月の影と
微細な星々の輝きまでを見た
その時こそ、
アシュナスがゼイゴウの学びを
完遂した瞬間であった。
荒ぶる流れを許容し、
なお清き星月の影を捉える。
激流と清き静寂。
その意志の現れこそ
アシュナスの五つ目の禮画たる禮極
“清流”すなわち…
『アルセキリク』
アシュナスはその現れたる
詩を唱えた。
現れたる刀は余りに巨大で
荒ぶる龍のごとく、
流れに逆らうことなく
堅き鱗と顕わな種に
振り下ろされた。
それは
静かな一閃であった。
落ち葉でさえ息を潜めるほどに。
堅き鱗のタラトットは
顕わな種ごと二つに分かれ
地に横たわった。
種からは
無数の光が溢れた。
奇しくも、
その怨敵の最後の光は
二人の再会を祝福しているかのように
アシュナスとキアンディナを
照らして消えた。