皿状の鉱石に、
僅かに水のようなものが溜まっていた。

アシュナスが近づくと、
水のようなものの
表面がわずかに震えた。

風はない。
だが、水は応えるように揺れた。

アシュナスは適量だと判断し
自在器たるフディアの栓を解き、
霊水に招き入れる意志を向けた。

霊水はアシュナスの意志を
受け入れたかのようであった。

霊水は空中を渡り、
アシュナスの自在器たるフディアの中に
収まった。

かくして、アシュナスは
霊水の補充を完了させた。

この
アシュナスの意志に反応せしめた
水の如きものこそ
かの霊水ティアマナシアである。

鉱山の隙間より
僅かに滴るこの霊水の
出所は川や滝、そして
井戸よりも不明であった。
有力な説は、
かの有名な女神の伝説に起因する。

ティアマナシアは器に迎えいれられる事で
力を現すとされ、
その力はフディアトの意志と
直結し、その意志の今を現す。

意志が揺れれば霊水も揺れ、
意志が鋼のようであれば、
霊水も鋼の如きとなる。

また、ティアマナシアは
賢者を拒絶すると言われている。

ティアマナシアは
厳密には水では無いとされる。
だが、水以外に
それは形容し難い存在でもあった。

故にそれは霊水と呼ばれた。

ティアマナシアとは、
現れを成すための霊水であり、
それ自体が力ではない。

並のフディアトであれば、
一度の現れに全てのティアマナシアを
使い切る。
故に、一度現れが砕ければ、
もう一度ティアマナシアを
補充するまで、
二度と現れが生じることはない。

だが、アシュナスの場合は、
自身のフディアに入っている
ティアマナシアの一部を現し、
砕ければまた残った霊水の一部を現す。

故にアシュナスの場合は、
タラトット狩りの最中に
現れが仮に砕け散ったとしても、

およそ

刀は百。
槍は五十。
矢ならば千。
縄なら百本、
現すことが出来る。

形が違うだけで、
消費される霊水の総量は等しい。

刀一本を失うことは、
矢十本を失うのと同義である。

刀を五十折れば、
矢を五百失ったのと同じだけ、
アシュナスの内にある霊水は削られる。

当然それぞれの現れが破損しなければ
何度でも現すことができる。

ティアマナシアの
扱いに慣れるほど、
一度に現す量を調節出来る。

だからこそ、
一定の力量を超えたフディア達は
皆、理解している。

ティアマナシアは
一滴でもあれば現したりえると。

だが、一滴の現れが強靭となるかは
充分な経験と鍛錬に裏打ちされた
各フディアトの“確信度”による。

つまり意志の強度。

疑わなければ現れは生じる。

ある意味では霊水の残量は
気力の指標とも言えた。

霊水たるティアマナシアは
フディアトの意志と直結しているが故に、
フディアト間での霊水の受け渡しは
困難を極める。
よほど心を許せる関係でなければ
成立しない。
曇りなき、邪念なき、
疑いなき関係でなければ。

 
アシュナスは受け皿を後にし、
白き鉱山たる水山の一番低位置、
出入り口付近にある
井戸へと改めて向かった。