かつて灰色の美しい木であった
『アシュナスの庭木』は
今や黒く焦げ、
炭となって大地に散り、
その面影すら残っていなかった。
火を吐くタラトットや
幾体もの化け物が村中を蹂躙(じゅうりん)
したのだから、
それも無理からぬことであった。
だが、アシュナスの心には
いつまでも美しくその灰色の木は残った。
そして、アシュナスの自在器たる
フディアは、堅き鱗に叩きつけても、
決して折れることはなかった。
アシュナスは霊木たる庭木の
加護によるものだと心から信じた。
二人は石ころ置き場に
最後の石を置き、
手を合わせた。
キアンディナが呟いた。
「村のみんなが生きててさ、
あたしがヨルグナを患ったって知ったら
悲しんだかな」
アシュナスは何も言わなかった。
「……分かってるよ!」
キアンディナは期待などするはずもない。
という表情をした。
「はぁーっ!
こんな酷い村に、よくもまぁいたもんだ!
えらいよ、あたし達!!」
キアンディナは、そう言って、
明るく、大きな声で笑った。
「村はぶっ壊れ、紋章塔も砕け、
あんたの木も燃えちまった。
それに…父さんにも“出ていけ”って
言われたみたいなもんだし、こりゃあ
思い残すことなんて一つもないね」
明るい声とは裏腹に
アシュナスには
キアンディナの表情が
どこか寂しげに見えた。
「……あたし、
父さんがいたからこの村にいたんだよ
父さんが、エニファル村を
離れるわけないだろ?」
『慣わしだから』
二人は声を揃えて、そう呟いた。
キアンディナは、また笑った。
大きく、屈託なく。
だがアシュナスは知っていた。
キアンディナは、
もしゼイゴウが亡くなったなら、
その意志を継ぎ、
命尽きるその日まで
エニファル村に
身を捧げたであろうことを。
村人たちから何の感謝がなくとも、
それを意に介さず、
ただ成すべき事を成し、
父の意志を継いだであろうことを。
そうならずに済んだことに、
アシュナスは心から安堵していた。
そしてタラトットは、
皮肉にもその慣わしから
キアンディナを解き放ったのだった。
アシュナスは思う。
自分がエニファル村にいたのは、
ゼイゴウのためでも、村人達のためでも、
ましてや慣わしのためでも無かったと。
キアンディナが、いたからだ。と。
その時、
キアンディナがアシュナスに告げた。
「……あたしが村にいた理由は、
父さんのためだけじゃないよ。
アシュナス。あんたがいたからさ」
アシュナスはキアンディナを見た。
「あたし達は最高の相棒だからね!」
とキアンディナはアシュナスに言った。
アシュナスは静かに頷いた。
さしあたって二人は
レキファト村へ行くことにした。
しばらく時が経ち、
レキファト村の
メルティリナの自宅の居間で、
ウィルカルに触れ、連れ戻すために
全身ヨルグナに包まれていた
メルティリナからみるみる
ヨルグナが引いていった。
アシュナスは胸を撫で下ろした。
自分が戻ってこれたように
メルティリナが戻ってこれる
保証などどこにもないからだ。
だが、ヨルグナに侵食された者を
連れ戻せると知って
伝えないわけにはいかなかった。
メルティリナは
ウィルカルの婚約者なのだから。
そしてついには、
ヨルグナが引く現象は
メルティリナが握った手の
相手であるウィルカルにも及び、
やがて不思議そうな
表情のウィルカルが
起き上がった。
「メルティリナ…。
…?やっぱりさっき会ったのは
夢じゃなかったのか。
アシュナス…何でここに?
…それから…はじめましてのお嬢さん…。」
それが復活したウィルカルの
最初の言葉だった。
ウィルカルを抱擁した
メルティリナの
頬を大粒の涙が伝った。
アシュナスの目は光を宿し、
キアンディナはつられて涙ぐんだ。
後に分かったことは
誰もがヨルグナから
戻ってこれるわけではない。
ということである。
レキファト村に安置されている
いくつかの棺に眠る者の関係者に
メルティリナは
慎重にこの情報を伝えた。
ある者は
自身もヨルグナに侵食されることを恐れ、
実行には至らず、
ある者達の場合は無事に両者が戻り、
ある者は一人だけで戻った。
そして連れ戻そうと試みた側も侵食され
両者とも戻らない場合もあった。
むしろ、それが最も多い事例であった。
不思議なことに
両者とも戻らなかった場合、
例外なく両者とも霧となって消えた。
恐らく、ヨルグナから戻れる条件は
連れ戻す側が
強靭な意志を持っていること。
そして両者に幼少期からの繋がり、
あるいはそれに匹敵する深い繋がりが
あること。
その繋がりが綱のような役目を果たすのでは
ないかということが
アシュナスとメルティリナの仮説であった。
そして、
帰空霧天した者は
二度と戻らない。
ゼイゴウの石ころが
取り払われることも二度と無かった。
アシュナスとキアンディナは
しばらくレキファト村で
過ごすことにした。
二人はレキファト村で歓迎された。
それにはいくつかの理由があった。
一つは村の多くの子供達にとっての
優れた教師であるメルティリナと
その婚約者たるウィルカルに
歓迎されていたこと。
そして、おそらくアシュナスが
レキファト村を含めた
賢者の統括するこの地域一帯に
しばらくの平穏をもたらしたことであった。
というのも、
アシュナスが自身の村である
エニファル村に出現した
大量のタラトットの種を
割ったことに起因して
しばらくこの一帯に
化け物が現れないと
賢者がレキファト村の人々に
告げた。ということであった。
三百日から千日、場合によっては
それよりも長く
化け物が現れないかもしれないと。
故に
賢者キトはこの地から去るそうだ。
「いずれ新たな統括者が
訪れるかもしれないね。知らないけど。」
などと言い残し、賢者は姿を消した。
そもそも、フディアト達を運搬し
指揮する『統括者』を賢者が
務める事例は異例であり、
全てはキトの気まぐれであった。
しばらく化け物が現れない。
という賢者の話は
にわかには信じ難かったが、
アシュナスは直感的に
それが真実であろうと理解した。
この一帯から
化け物の気配が消え去ったような
澄み切った感覚が
アシュナスにはあったからだ。
どちらにせよアシュナスは
しばらくの平穏を納得して受け入れた。
だからこそ
アシュナスはキアンディナと共に
レキファト村で
安息の日々を過ごす気になったのだ。
ウィルカルは二人に
「この村にずっと住めばいい!」
と言った。
二人はそれも悪く無いと思った。
だが即答は避け、
レキファト村の恩恵を享受した。
メルティリナの
手料理やレキファト村の飯屋での
料理を堪能し、
子供達や年寄りに
様々な自分たちの体験を語った。
アシュナスとキアンディナに
とって実に喜ばしいことがあった。
レキファト村の
家々には風呂があったのだ。
ゆったりと湯船に浸かるその時間は
アシュナスとキアンディナにとって
至福の一時となった。
またレキファト村で過ごすうちに
アシュナスは負っていた数々の傷も
すっかり癒えた。
またアシュナスの回復は想定よりも
迅速だったため、風呂は傷の治癒にかなり
効果があるのではないか?
とアシュナスは思った。
アシュナスとキアンディナの傷は
完全に癒え、
二人の禮装一式もすっかりと
修復され、霊水も自在器たる
フディアを満たすほどに補充された。
アシュナスはキアンディナと共に
レキファト村で生涯を終えるのも
悪く無いと思った。
だが、
それが自らの心の奥底から
湧き上がる本心で無いことも
理解していた。
なぜならこの平穏が続く保証は
無いからだ。
いずれまたあの狩りの日々が始まり、
レキファト村の人々は
一人また一人と消え
やがては
エニファル村のように
崩壊するかもしれない。
根本的な解決が必要であった。
アシュナスはキアンディナと共に
村の丘を歩きながら登った。
丘の上には枝も葉も幹も純白の巨木が
生えている。
その巨木はアシュナスが賢者と共に、
はじめてレキファト村に
訪れた際に見た巨木であった。
純白の巨木は開花の時期であり、
その周りを白き花びらが舞っていた。
「なぜ、師匠は慣わしに縛られるように
なったんだろう。」
「なぜ、俺達の村の
あの老人は保身に走ることばかり考え、
なぜ…ヒャルセオのような男が
存在することになったんだろう。」
とアシュナスは語り始めた。
「もし、あの化け物がいなかったら
誰もが別の生き方があったのかもな。」
とアシュナスは続けた。
キアンディナは
確かにそうかもしれない。
といった表情を浮かべた。
だがキアンディナは率直に意見を言った。
「けど、そんなことはありえないだろ?
雲や石ころや木や風が
この世から無くなったら?って
話に聞こえるけど。」
「…風や木の出自は分からないが
少なくとも…化け物には起点がある。
やつらは初めからこの世界に
いた訳じゃない。」
とアシュナスはキアンディナに
告げた。
「何か知ってるのかい?」
とアシュナスにキアンディナは問うた。
アシュナスは
はじまりの天地ニルヴァルクについて
知っていることを
キアンディナに打ち明けた。
アシュナスは言葉を続けた。
「俺たちは『狩人』とも
『戦士』とも呼ばれていない。
にもかかわらず、
俺たちはただ、来る日も来る日も
石舟に乗り、狩りの地に向かい、
タラトットを狩り続けるだけの存在なのか…?」
「俺たちは自在者たるフディアトだ。」
アシュナスの現れが形をとりはじめた。
それは何ものをも
切り裂くことも
貫(つらぬ)くことも
射ることも
縛ることもない
“現れ”であった。
それは、アシュナスが
何度も描いたあの
灰色の樹のような現れであった。
キアンディナはアシュナスの作る
もっとも美しい現れだと思った。
「この世界から化け物を
無くすことができるかは分からない。
だがそれを望み、それに向かうことは
出来るんじゃないか?」
アシュナスの美しい現れを見て
キアンディナは、
確かにこの世界には思いもよらない
可能性があるのかもしれないと感じた。
そして
「…そうだね。
一人でもあたしらみたいな
想いをする子を減らしたいな。
もちろんあたしもあんたと行くよ。
そのニルヴァルクってのを探しに
いくつもりなんだろ?」
とアシュナスに言った。
アシュナスはキアンディナを
見つめ頷いた。
気付けば二人の足元に
白き花びらが絨毯の如く
敷き詰められていた。
アシュナスにはその光景が
まだ、何も描かれていない
地図のように思えた。
後日、ウィルカルとメルティリナ、
そしてレキファト村の村人達に見送られ、
石舟に乗るアシュナスとキアンディナの姿があった。
アシュナスとキアンディナは
ウィルカルとメルティリナ、
そしてレキファト村の村人達に
再会を約束し、石舟に乗り
レキファト村を後にし、
大地を流れて行った。
一艘の石舟を
アシュナスが操縦し、
キアンディナが後ろに乗った。
アシュナスは今後について
想いを巡らせた。
化け物にまつわる脅威を
根本から解決するには、
この世界の秘密を探るしかない。
アシュナスはそう改めて決意した。
そして、
キアンディナと『揺らぎ』の関係を
知られる前に
一つところにとどまらない方がいい。
『揺らぎ』はこの世界に
何をもたらすか計り知れない。
だからこそ、アシュナスには
キアンディナを護ることが
この世界に対する責任とさえ思えた。
だが何より純粋に
キアンディナを護りたいと思った。
そのことにおいて
誰よりも強い意志が
あるのは自分だとも思った。
そして、キアンディナを本当の
意味で守るには
この世界の秘密を知るしかない。
それは、
あの『ニルヴァルク』という
言葉に関係している。
アシュナスには
そう思えてならなかった。
考えを巡らせているアシュナスに
キアンディナは尋ねた。
「アシュナス。考え事かい?
行き先が決まってなくて困ってるとか?」
アシュナスは
『干渉者』のことも『揺らぎ』のことも
キアンディナに伝えるべきではない
と思った。
どのような負担をかけることになるか
計り知れないからだ。
アシュナスは
キアンディナに返答した。
「ああ…そんなところだ。」
キアンディナはアシュナスに告げた。
「決まってないなら、
どこもかしこも行き先ってことだろ?」
「せっかくなんだ。
旅気分と行こうじゃないか。」
そしてふと遠くを見つめ、
静かに確かな声で呟いた。
「いい風だね」
その言葉を聞いたアシュナスは、
キアンディナを見つめ
幼少期を思い出し、そっと微笑んだ。
アシュナスは
改めてキアンディナが
今も確かに存在していることに
安堵を覚え、その事実が崩れぬことを
心から祈った。
そして二人は『ニルヴァルク』
という言葉を灯火に、
慣わしのない旅路を行くのであった。