ガシリと音がした。

ヒャルセオが突き出した
フディアの切先は
少年の額を貫くことなく、
砂粒一つ分の距離で止まった。

大柄の男がヒャルセオの腕を掴んだのだ。

ヒャルセオの腕を掴んだのは、
フディアトの禮装(れいそう)を
纏(まと)った男であった。

背の高い巨体に、隆々たる筋骨。
武人のようでいて、
どこか道士や仙人を思わせる
佇まいをしている。

その目はヒャルセオと同じく鋭い。
だが、その眼差しには覇気が宿り、
静かでありながら
周囲を圧する威を帯びていた。

笠を被っており、
長く伸びた後ろ髪が、
肩から背へと流れていた。

その男こそが、
鬼神と謳われ恐れられた
ゼイゴウであった。

紅い髪の少女は少年の顔を見た。

少年は瞳を逸らさずに立っていた。

だが、しばらくすると糸が切れたように
膝から崩れ落ちた。

傷だらけで灰にまみれた灰色髪の少年は、
震えが止まらない様子であった。

紅い髪の少女はしゃがみ、
少年の肩に手をやった。

「大丈夫?」

そう声をかけたのは、
少年の方であった。

紅い髪の少女は心底驚いたが
すぐに気を取り直し、

「ああ!あんたのお陰だよ!」
と少年に言った。

ゼイゴウに掴まれたヒャルセオの腕は、
しばらく使いものにならないであろう音を
たて、腕の主の悲鳴が遅れて上がった。

倒れ、もがき苦しむヒャルセオに向かって、
ゼイゴウは飯種(めしだね)の入った袋を
どさりと机に置いた。

「飯種千粒だ。あの者を弟子にとりたい。」

あの者、つまり
灰にまみれた灰色髪の少年へと、
酒場にいる者たちの視線が集中し、
ざわめきが起こった。

ヒャルセオは
「め…飯種千粒…!?」

「持ってけ!こんなガキ!
ああ!くれてやるとも!」

と言った。

「誰も…!誰も俺の飯種に
触るんじゃねぇぞ!
一粒残らず全部俺のだ!」と
ヒャルセオは叫び、
使える方の腕で飯種の袋を抱え込んだ。

「哀れなやつ。」と紅い髪の少女は
見下した目つきでヒャルセオを罵った。

「触るなだと!?その飯種で
きっちりツケを払いやがれ!」
酒場の店主は飯種の袋から
飯種を掴み出そうとした。

ヒャルセオは抵抗し、
酒場の店主の顔面に拳をみまった。
そして飯種を奪われまいと、
飯種の袋に手を入れ鷲掴みにし、
口に入れて頬張った。

店主とヒャルセオは
とっくみあいになったが、
負傷しているヒャルセオは
悲痛の声をしばしばあげた。
その騒ぎに乗じて
酒場の者達は飯種を奪いに
群がった。

ゼイゴウと
紅い髪の少女は
今しがた起こり始めた
暴動を意に介することもなく
灰色髪の少年と共に酒場を後にした。

ゼイゴウの操る石舟に
紅い髪の少女と
灰色髪の少年が乗り、
三者はエニファル村に向かった。

紅い髪の少女は
横に座る灰色髪の少年に、

「噂があったのさ。
ヒャルセオってやつに
酷い目に遭わされてるって
不思議なガキの噂。

父さんは慣わしで
弟子を探してたから
あの酒場に行ったんだ。

あんた…ヒャルセオの
叩き袋とか
言われてたけどさ…。

鎖にでも縛られてたのかい?」

と言った。

少年は首を振った。

「いつでも逃げだせたんだろ?」

少年は頷いた。

紅い髪の少女は
「でも逃げなかった。」
と言った。

少年は虚ろな目で
虚空を見つめた。

紅い髪の少女は続けて言った。
「ヒャルセオ…あいつ
フディアトのくせに
飯種に気づかないで
むしゃむしゃ食ってたね。」
と小馬鹿にしたように言った。

「あの飯種には
ティアマナシアがかけてあったのさ。
慣わしでね。

あのバカ気づかずにむしゃむしゃ食って。
腹こわすよ。きっと。」

後に、
霊水がかかった飯種を
大量に食したヒャルセオは
自らの歪んだ意志に呼応した『現れ』に
体を引き裂かれて死んだとも言われた。
だがそれは風の噂であり、
誰も確かめようともしなかった。

少女は少年に
「ティアマナシアを知らないって
顔してるね。」と尋ねた。

少年は頷いた。

少女は
「霊水のことだよ。
酒場にもフディアト達がいたから
使うやついただろ?」

と言った。

少年は頷いた。

少女は
「ほら!人それぞれ
色んな『現れ』が出るんだよ!」

そう言いながら
取り出した自身のフディアに
紅い髪の少女は
小さな明かりを灯した。

その小さな明かりこそが
紅い髪の少女の『現れ』であった。

「まぁ、あたしに出来るのは
これだけなんだけどね!」
と少女は少年に言った。

その明かりは、
ただただ小さな明かりだった。

光の無い少年の瞳を
その小さな光が照らした。

少年は、
「……きれいだね。」と
かすかな声で言った。

それはゼイゴウの石舟に乗ってから
初めて少年が少女に発した言葉であった。

紅い髪の少女は少年に
「あんたはどこから来たのか
分からないって噂だけど本当かい?」
と尋ねた。

少年は頷いた。

「…分からないんだ。
いつ自分が始まったのか…。」

と少女に力無く告げた。

紅い髪の少女は
ゼイゴウに目をやり、
もう一度少年に目をやった。

「父さんは
あんたを飯種と交換したわけじゃないよ。

あのやり方が村の慣わしなんだ。

父さんは
慣わしにグルグル巻きにされてんのさ。」

と言って笑った。

少年はエニファル村の
ゼイゴウ邸に到着するやいなや
洗礼を受けた。

自在器を模した木刀を渡され、
ゼイゴウの重い一撃を百も千も受けた。

それは後に迫り来る
かの化け物との戦闘訓練の始まりであった。

だが、少年にとってみれば、
その環境や状況でさえ、
ヒャルセオから受けた処遇に
比べれば随分とマシであった。

少なくとも
痛みは、外面的な部分だけである。

少年はゼイゴウの弟子ではあるが
誰の叩き袋でもなくなっていたのだから。

とはいえ、ゼイゴウが少年に
施した訓練は、訓練というには
あまりにも一方的な殴打の連続であった。

そして、その訓練中少年の瞳は
依然として、光を失ったままであった。

痣(あざ)だらけの灰色髪の少年は
稽古から解放された後、
邪悪な水の入った容器が
空になったような表情のまま
ゼイゴウ邸の土庭に向かった。

紅い髪の少女がそこにいて、
少年を待っていると
ゼイゴウに聞いたからだ。

紅い髪の少女は
焚き火場で倒木に腰掛けており、
パチパチと焚き火をしていた。

少年が少女の元に現れた時、
少年の顔や身体には
初日の修練とは思えぬ跡が見てとれた。

紅い髪の少女は
「よお!さっそくとっちめられたようだね!!
残念だったねー!
師匠になったのが
あんな鬼みたいな親父でさ!!!」
と屈託なく笑いながら

「さあ!ここに座んなよ!灰色髪!」

と少年に声をかけた。

少年は目を下方に移した。

そして 「灰色…」と
消えいりそうな声でつぶやいた。

更にその瞳から
活力が失われたようであった。