その村は
エニファル村から
山三つ分程離れた場所に存在した。
村には一軒の酒場があり、
日夜タラトットの
脅威を忘れるための場として
人々に利用されていた。
村の名はオルガシェ村と言った。
オルガシェ村の建造物は、
エニファル村と同様に
泥をこねて形作ったような造りであったが、
どの建物にも窓や扉があり、
わずかながら手の込んだ細工が見て取れた。
酒場は数十人が入れる広さを持ち、
机一つを囲むように四、五人が腰を下ろし、
酒をあおっていた。
机の上や店のいたるところに
酒の入った容器が並び、
液体の揺れる音、
容器のぶつかる音、
取り留めのない話し声が
絶え間なく重なっている。
酒のつまみは無い。
ただそのまま飲むか、
火で炙り、
熱を帯びた酒を飲むか。
それだけであった。
故に酒場には、
酒の匂いとともに灰が積もる。
炙られた酒の分だけ木材は焼かれ、
灰は溜まり、
その灰は卓の隅、そして壁際の灰鉢へと
押しやられていく。
灰鉢に入れられた灰はやがて
酒場の裏にある
灰捨て場に捨てられる。
酒と火と灰。
灰のみがこの酒場では
無用の産物であった。
酒場の隅で、
男が少年を蹴り飛ばした。
少年は背後の灰鉢に激突した。
鉢が割れる乾いた痛々しい音とともに
少年の体は地面に叩きつけられ、
無防備な姿勢のまま倒れ込んだ。
灰と鉢の破片が地面に散乱した。
灰にまみれた少年は、
肌に触れた破片の冷たさを感じた。
慈悲の無い無機質な冷たさは
刺すような痛みに変わった。
少年の赤い瞳に宿る力も光も
弱々しかった。
灰は少年の
髪、顔、手、体に降り積っていた。
少年は自分の存在自体が
消え去っていくように感じた。
少年はいっそのこと
このまま消え去ってしまえば
どれほど楽であろうかと考えた。
灰まみれで
涙など流れるはずもないほどに
乾ききった少年の目の光は
更に弱まった。
「お前にはほんとに
灰が似合うなぁ。
捨て灰まみれのゴミ屑…。」
少年を蹴り飛ばしたのは
ヒャルセオという男だった。
飲んだくれている。
ヒャルセオは
フディアトであったが
めったに禮装(れいそう)は
纏(まと)わない。
自在器たるフディアを握るよりも、
酒の容器を手にしている姿の方が
はるかにしっくりくる男だった。
上下とも簡素な布の衣服を身にまとい、
身なりを整えるという
発想そのものが欠けているようだった。
髪は雑に切られているだけで、
まとまりなど無い。
常に気だるげな空気をまとっている。
その目に覇気はなく虚であったが妙に鋭く、
何かを睨みつけるためにだけ
作られたかのような目つきが
張り付いていた。
「何度壊したら気が済む!
お前が割った灰鉢の分は
飯種(めしだね)で払ってもらうからな!
どれだけつけが溜まってるのか
分かってんのか?」
酒場の店主がヒャルセオに怒鳴る。
「ああ?なんだそんなことか。
ならこいつをここで働かせろ。」
ヒャルセオは
灰まみれの少年を指差した。
店主は
「充分ここでこきつかってるさ!
お前の莫大なつけのぶんな!
このガキは
最近毎日ここの床で寝てるんだ!」
と言った。
周りの誰もがその光景に
ヒソヒソと噂を話し、
それでいて我関せずといった態度をとった。
「ヒャルセオのやつ。
あのガキを利用して
タダ酒を飲んでるらしい。」
「贅沢なやろうだぜ。」
「あのガキ…。あの灰色髪の
得体の知れない捨て灰まみれ。
あいつはどこからともなく現れたらしい。
『灰から生まれた』って噂もあるくらいだ。」
「じゃあ、あのガキの生まれ故郷は
酒場の裏の灰捨て場だってのか?」
「ヒャルセオはあのガキを
飯種十粒で手に入れたらしい。」
少年が飯種十粒の価値があるか無いかで
ささやかな言い合いが起こった。
ヒャルセオが怒鳴り声を上げた。
「なんだてめぇら!!
なんか文句あんのか!?
オラァ!このガキの
持ち主になりてぇやつは
飯種だせよ!オラァ!
こいつは
俺の叩き袋だ!!
俺がこいつを見つけたんだ!
こいつを好きなだけ
ぶん殴りたいやつは
飯種三粒よこせ!!」
誰もが黙った。
ヒャルセオは自分の顔の傷痕を
触りながら感情を少年にぶつけ始めた。
「見ろこの傷を、ガキの頃だった!
俺はまだガキだった!
あの化け物…!」
そう言ってヒャルセオは
自在器たるフディアを
振り回しながら
少年を殴打し始めた。
ヒャルセオのフディアは
簡易的な棒状の柄(え)である。
くたびれて、
手入れもされていない。
幸い『現れ』はまだ出ていない。
仮に少年の顔面を
殴打してもいつものこと。
致命傷には至らない。
ヒャルセオは叫びながら
フディアを振い続けた。
「お前みたいな無価値な存在がいて
良かった。俺のクソみたいな
人生がちったぁマシに思える。
捨て灰まみれで親もいねぇ!!
みすぼらしい!!
無意味な存在だよ!
灰色の!燃えカスだよ!
カスみてぇな!
お前みてぇな
カスに生まれなくてよかったぜ!!」
鈍い音が響き渡る。
「もう一度、いや
何度でもいい!聞かせてやるから
覚えとけ!!お前は
なんの意味もねぇ無意味な
捨て灰だ!!」
酒場の中は静まり返っていた。
「やい!ガンキンチョいじめて、
ヒデェおっさんだな!」
突然沈黙を破り、
ヒャルセオの後ろから
闊達な声がした。
声の主は
紅い髪の少女であった。
十二歳前後を思わせる年頃で、
アシュナスと同程度の背丈であった。
羽織や笠こそ身につけていないが、
その身に闘着(とうぎ)を
纏っていることから、
少女がフディアトであることが予想出来た。
その闘着は
自身の髪色よりも更に深い紅色をしていた。
紅い髪の少女の目は豊かな
深緑色でありながら、
生命の風が吹き抜ける草原のような輝きと、
若葉のようなやわらかさを
同時に宿していた。
「ああ?なんだ?」
とヒャルセオは少女を睨んだ。
「あんたがヒャルセオ!?
クソザコフディアトって
有名だよ!化け物相手にいつも
逃げ腰で現れも
クシャクシャだって!」
あちらこちらで
クスクスと笑い声がした。
「化け物にはビビって
子供にはひでぇことして…!
なっさけねぇ!!」
と少女は続けた。
笑い声はより大きくなった。
酒場の誰もが思っていても
直接ヒャルセオには言えない言葉の数々を
少女が矢継ぎ早に浴びせたためである。
ヒャルセオは
赤面した顔で歯を食いしばり
自在器たるフディアを握りしめた。
怒りは一瞬にして頂点に達した。
ヒャルセオのフディアから
いびつな切先が現れ、
「こいつで人をぶっ殺したら、霊水は
真っ黒になるって噂があるらしいな!
試してみるか…!?」と言うやいなや
紅い髪の少女めがけて、
フディアを振り下ろした。
その瞬間、
灰まみれの少年が
とっさにキアンディナの
前に出て、両手を広げ盾となった。
少年の赤い瞳は
真っ直ぐヒャルセオに向けられた。
ヒャルセオは怯んだが、
振り下ろした自在器に
歯止めを持たせる筋力など、
持ち合わせていなかった。
自在器たるフディアの切先は、
そのまま少年の
額に向かって風を切った。