祭りと神と人

漫画
大怪獣アンドンの感想。

この漫画では
人間と『神的なるもの』との関係が
外側と内側』という構造で
語られていると筆者は感じた。

山車(だし)とフロートに
感じる差異。

アンドンを読んでいて、
山車とフロートの違いにこそ
この漫画の根幹的な構造が
潜んでいるように思えた。
その違いが上記に書いた
外側と内側。

外側を楽しむフロート。

フロートは見ているだけで
楽しいものであり、
誰も内部構内に目を向けようとは
思わない。いちいち中を覗こうと
想うこと事態、野暮なことだろう。
見えるそれ事態に
素直に夢を見て楽しい気持ちに浸るのが
フロートの楽しみ方だと筆者は思う。

内に想いを巡らせる山車

対して
漫画で描かれているように、
山車は祭りという神事の象徴である。
であるならば、山車の見た目それ自体もさることながら、その内側に潜む 神的なもの、
祈りのような領域に
当然想いを巡らせること
になるのは必然なのではなかろうか。

主人公の外と内

主人公は東京、地元
それぞれの外側と内側を体験する
越境者としての役割を持つ。

この物語の序盤においては
まだ地元の外側にいて、
その立ち位置が
山車の外側のみをチラリと
眺める構造とリンクする
しかし、
彼は地元の内側
あらためて入っていくことで
山車の真の姿を目撃することになる。

自らの幼心も含めた
神的なるものと人の深層心理のような
ものが繋がった、
祭りの本質的な
領域に物語は突入する。

幽霊とモンスターの
内と外。

ゴジラ英霊説というものがある。
初代ゴジラは戦争で亡くなった
兵士の情念の塊であるという説であり、
この漫画に登場する
とある描写は
おそらくそれをさしていると思われる。
(この説に関しては多くの方が
論じておられるのでご興味ある方は
調べてみてはいかがだろうか。)

その説を採用するならば、
初代ゴジラはモンスターよりも
幽霊に近い。

幽霊に感じる恐怖も
モンスター的な食われるとか、
爪が鋭いなどの
外側の物理的な恐ろしさよりも
情念、怨念、呪いなどの
精神的な部分の恐ろしさ、
内側の恐ろしさである。

(余談
ふと思い出したが、
海外の映画でも
シンクロナイズドモンスターなどは、
負の念、破壊衝動の象徴としての
怪獣が描かれていて
極めて日本的な映画なのかもしれないと
思った。)

巨大な破壊神としての神

平将門、菅原道真など
日本には強力な
怨霊を祀る文化が
ある。破壊神としての
怨霊もまた神である。

ゴジラにはこの破壊神としての
要素も当然含まれており、

漫画の中でもこの
ゴジラ的な破壊神的な要素を
神として祀ることで
平和への祈りへと転換する想いが
山車に込められていることが
描写されている。

・東京と地元
・山車とアンドン
・主人公

これらに
外側から見ることと
内側を体感すること
』という
メッセージが紐付けされている。

祭りについて思う。

祭りは単なるパーティではなく、
神事であり生命の始まりである
出会いの場であった。
というのが古来の習わしと
聞いたことがある。

祭がどこからいつ
始まったかは諸説あるだろうが、
火を囲むという
行為はかなり原初からあった
祭り的行為ではなかろうか。

安全のため。
安心のため。
そこにも
やはり神(火や獣)と
人間の物語はあったはずである。 

筆者の地元にも
祭りがあり、
参加していたのも
遥か昔だが
神輿の上で
太鼓を叩く
恒例行事を行った
思い出や
楽しげな連帯感や
大人達の酒の匂い、
子供ながらに神聖さを感じた
明かりの灯る夜の宮を思い出した。

この漫画には
自らの祭り体験を
想起させる力がある。

パーソナルな物語

それはやはり
この物語が
パーソナルな物語だからだろう。

物語はその人にしか
描けないものにこそ
最も価値があるとされる。
しかし、その個人の深くには
誰しもに通じ、すくいとることのできる
水脈のような
領域があるのかもしれない。

アンドン
極めてパーソナルで根源的な
祭りと神と人についての物語だと思った。

あとがき

漫画感想を書いていて
あらためて思ったことがある。

この文章を書いている今、
世は、概念としての
怨霊を超える
実際の困難に直面している。

医療従事者の方をはじめ
最前線で活躍されている方には、
本当に頭が下がる。

祭りの本質が
抗えない
大きな力を

それでも祈り、
最善をつくすことを
忘れない。

巨大な困難を
糧にする行為。

なのだとしたら、
今まさに読むべき漫画なのかもしれない。

爆TECH!爆丸という
作品に取り組ませて頂いていた
2011年の頃にも
巨大な災害が起こった。

おそらく、
この先も何度も
このような事態は
訪れるのだと思う。

火を囲んだ
我らの祖は
諦めなかったのだろう。

だからこの文章を
書くことができた。

全ての厄災は
未来を
より明るい方向へと
転換させる要素も
含んでいると信じたい。

専門家でもない
筆者が出来ること
世間に対して出来ることは
本当の意味で
不特定多数の方に出来ることは
下手な自論を述べることではなく、
祈ることくらいだろう。

多くの命の無事と
あらゆる意味での
事態の終息と
それらを糧にした
平和的な発展を
祈ります。

2020.5.2